慶長14(1609)年2月、薩軍の動員準備は完了しました。
樺山総大将に平田副将、総勢3000余、軍船100余(1300人に75隻とも)の征討軍という名の侵略軍は、その月21日に鹿児島を出発しました。
3月7日、両将は奄美大島(琉球領)島民を挾み討ちにします。
島民は農具を振り窮して抵抗しましたが、火を吹く銃の敵ではありません。
名瀬・焼内(今の宇検)の住民は降参し、徳之島では300の民が戦死し、21日は沖永良都島が降参、と速度が早く、24日には、樺山らは那覇へ向いました。
しかし、港口は海賊よけの鉄鎖を張り廻して防備が厳しく、逆戻りして北の運天港から上陸ときめました。
時に25日。
一方、奄美の大破壊は飛舟で首里城に速報され、国王尚寧を中心に、摂政具志上、謝名ら三司官や表15人ら、100官が参集し、会議の結果、西来院の僧菊隠を講和使者として薩軍派遣に決定。
3月26日船出します。
その頃、北の今帰仁城は既に炎上していました。
菊隠は尚寧王の降伏を船上で樺山に伝え、諒解を得て牧港に帰り、一路首里城に復命します。
しかし樺山軍は運天港に上陸(4月1日)し、放火と殺鐵を繰り返しつつ南下して首里城にせまりました。
「棒の先から火を吹く」新兵器の恐ろしさは、語り伝えて今も沖縄に残っています。
沖縄ツアーに行く前にこのような歴史を知っておくと、沖縄のことを深く見られるようになるでしょう。