日本とアメリカの産業構造 2

日本が競争力が強いのは、規模の経済性を生かした、いわゆる大量生産方式を得意とする部門です。


具体的には鉄、IC素材などの中間財・生産財や、最終製品でいえば自動車、家庭電気製品などにすぎないのです。


産業全体では、アメリカは依然として日本よりも強いことがわかるでしょう。


生産活動を行う際、絶対に必要なものは、資本・労働・資源の3要素であり、これらは生産の3要素といわれますが、このうちどれか1つを欠いても、生産活動はできません。


本書の中で、何度も日本の産業構造が擬制の自前主義であるといってきたのは、日本が国内に自己調達できる資源を決定的に欠いているためです。


これに対してアメリカは、現在、仮にバランスを崩しているにしても、生産の3要素を国内で自己充足できる国家なのです。


その意味でアメリカは、真の自前主義経済が可能な国なのです。


その点、日本の経済は3つの柱つまり、資本・労働・資源のうち、資源という柱が1本、決定的に欠ける砂上の楼閣であるといっても過言ではありません。


日本・日本人が、現状認識として頭のなかにしっかりたたきこんでおかねばならない第一の点は、このことです。


そして、この砂上の楼閣が可能であったのは、世界の自由貿易体制の恩恵があったからです。


そして日本がそれを十二分に享受し、それが許されてきたのは、日本がキャッチ・アップの過程にあったからです。

日本とアメリカの産業構造

1960年と1980年を比較してみると、1960年では、すべての産業部門で、日本の生産効率はアメリカのそれよりも劣っており、アメリカの技術効率が優れていることがわかります。


1980年になると、両国の技術格差は急速に縮小し、いくつかの産業では日本の方が優位に立ったのです。


1960年から1980年の20年間、日本の技術水準が急速にアメリカに追いついてきた時間的プロセスが、これらの図から読みとれるのです。


1960年以来、日本の産業のうち、いち早くアメリカの産業の技術水準に追いついたものは、製造業の中でも化学、鉄鋼などの素材生産部門であり、それらが他の加工組立型生産部門への原材料の投入効率を高めたのでした。


加工組立型の製造業の生産効率のキャッチ・アップは、素材型の製造業よりも時間経過上いささか遅れて進んでいます。


1980年でも、アメリカの水準が高い産業部門がいくつかの軽工業にみられますが、格差は縮まりつつあり、近い将来日本がキャッチ・アップする予想ができます。


しかし、農業、石油・石炭製品など土地やエネルギーなど天然資源に依存する度合いの大きい産業部門では、1980年でもアメリカは断然優位に立っており、歴史的にも、その効率格差は縮小しておらず、将来ともキャッチ・アップは不可能です。


これらの図からわかるように、日本が40年以上かけて、堂々として築き上げてきた産業構造も、アメリカとの比較において、キャッチ・アップできた産業は、数部門にすぎないのです。


・・・1980年時点でのデータでは、古いと考えられるかもしれませんが、産業構造としては現在もあまり変わっていません。


アメリカの切り札

日本とアメリカは経済的には運命共同体なのです。


アメリカが悪いの、日本が悪いのという議論は、ただ両国民の感情を高ぶらせるだけでなく、政府・最高責任者の政策運営の是非を問題の焦点からはずすことになります。


摩擦・軋礫の解決に役立つどころか、むしろ有害なのです。


最も大切なことは、摩擦・軋礫現象に惑わされることなく、それを惹起させている両国の経済構造なり産業構造を客観的に分析し、正しい現状認識をすることです。


1960年から80年までの、20年間にわたる、日本・アメリカ両国の産業別の国際競争力を比較したものがあります。


国際競争力を測る指標として使っているものは、全要素生産性と呼ばれるものです。


これは生産に必要なすべての要素、つまり、いろいろな原材料、労働、資本などの全投入要素を総合的に測り、その投入量に対する生産量の効率を測ったものです。


このTFPは、ある生産に必要な全投入要素の生産効率を示している点で、技術水準の総合評価でもあります。


日・米の産業を30の産業部門に分類し、中心から放射状の軸で示した図があります。


それぞれの軸の中心からの距離がその産業の生産性の水準を示しています。


両国の産業の生産性の特徴をはっきりさせるために、各産業の生産性水準をそれぞれ実線と点線で結んですが、実線は日本、点線はアメリカの生産性水準であり、中心に近い内側にプロットがある産業は、相対的に生産効率が低いことを示しています。

日本の貿易行動の問題 2

現象的表面的な覆・軋礫だけに目がいくと、問題処理は、感情駒政治的方向に流れ・解1決の方向どころか、混沌の極みに陥るだけです。


日・米間の貿易摩擦に端を発しているアメリカによる"日本たたき"は理不尽きわまるもの。


そして不当であり、悪いのは日本でなく、むしろアメリカである・・・との評論が一時もてはやされました。


しかしこのような議論は、「百害あって一利なし」なのです。


たしかに財政赤字を大きくしたのはアメリカの責任ではありますが、そのお蔭で日本は対米輸出を伸ばし、貿易黒字を増やし、また日本政府の財政再建が可能になったのです。


この意味からすると、日本はアメリカの双子の赤字f財政と貿易の赤字rから利益を受けたのでした。


過ぎ去ったことに「たら」という仮定をつけられるのはフィクションの世界だけに許されることなのかもしれません。


しかし、もしアメリカが1980年代、真面目に財政赤字の削減をはかっていたら、アメリカ経済はデフレになり、不況に陥っていたでしょう。


そうすれば日本も輸出を伸ばすことができず、日本はアメリカの不況の波をまともにかぶっていたに違いないのです。

日本の貿易行動の問題

日本の貿易行動の問題といい、前述の生産と消費の関係の問題といい・・・


日本あるいは日本人には、何のための貿易なのか、何のための生産活動なのかという問いや疑問が欠落していたのではないでしょうか。


今、日本人に必要なのは、この懐疑精神であり、そしてこの精神の営みの中から新しい理念を構築することです。


さもなければ相も変わらぬキャッチ・アップ精神で、はつかネズミのように、なりふり構わず地球上を走り回ることになるでしょう。


日本と西ドイツは世界の中でニ大貿易黒字国でありながら、"ジャパン・バッシング"が起こるにもかかわらず、"ジャーマン・バッシング"はないのはなぜでしょうか。


それは、戦後40年あまり、日本と西ドイツ両国がとってきた経済ビヘイビアーの優劣を云々するのではなく、"ジャパン・バッシング"の当事国であるアメリカと日本の位置関係をより相対的に認識することでした。


アメリカが日本たたきをするのは、名実ともに世界のナンバー・ワンであるアメリカにとって、日本がバッシングされるに価する経済力をもった証なのです。


それは第二次大戦後、軍事面で角逐してきたのは世界の2大軍事国であるアメリカ・ソ連であったように、今後、日本がますます経済力を高めていけば、日・米間の摩擦・軋礫は厳しくなることこそあれ、緩むことはないでしょう。

見せかけの経済

日本国内だけのスタンスに立てば、この自己充足型の自前主義経済は、それなりの説得力がありますが、世界的スタンスからみると、それはナンセンスなのです。


・・・というのは、世界の自由貿易体制というシステムの中には、貿易が自由に行われれば、世界の貿易量が拡大し、世界に政治的・経済的繁栄と安定をもたらすという理念が刻み込まれているからです。


したがって世界的スタンスからいくと、自由貿易体制の維持という目的を達成するために、各国は自国の経済をどう協調させていくかが最重要課題なのです。


日本もその例外ではありません。


したがって、自由貿易体制の維持ということが日本の国家目的でなければなりません。


なぜなら世界の自由貿易体制なしには、日本の存立はあり得ないからです。


アメリカは、いままで自由貿易の旗手として、立場上自由貿易体制の理念に奉じてこなければならなかったのです。


一方、日本はアメリカの傘の下で、輸出を拡大するだけ拡大し、その過程で、強固で閉鎖的な自払則王義の産業構造をつくり上げてきたのです。


そして貿易摩擦である、貿易に関してはおよそ自由貿易の理念なぞ頭の隅になかったといっていいでしょう。

自由貿易体制の維持

「消費は消費なり」という格言は、"経済活動の目的は消費であり、生産はあくまでも手段にすぎない"ことを意味しています。


そして日本あるいは日本人はこの目的と手段の関係を、取り違えてきたのです。


しかしこの目的と手段の取り違え、主客転倒は、消費=生産の関係だけでなく、日本の貿易行動と日本がつくり上げた産業構造との関係にもみることができるのです。


天然資源に乏しく、加工貿易に頼らざるを得ない日本は、世界の中で自由貿易体制の恩恵を最大限に受けている国の1つであることには間違いないでしょう。


もし自由貿易体制が崩れ、世界の各国が保護貿易主義に走ると、日本はたちまち経済的に沈没してしまうでしょう。


したがって日本がそれを防ぐ唯一の方法は、貿易相手国を保護貿易体制に追い込まないで、自由貿易体制を堅持することなのです。


しかし日本が戦後一貫してつくり上げてきた産業構造は、外貨不足の不安感・恐怖感に基因する見せかけの自己充足型産業構造です。


この自前主義経済は、"輸入しない"あるいは"輸入できない"構造をつくり出したのです。


この構造は、どうみても自由貿易体制とは相入れないもの。


この意味で、日本は擬制(見せかけ)の惰前経済を築くために、自由貿易体制を手段として利用してきたといえなくもないでしょう。

創造すること 2

19世紀後半では、旅行代理業というのは超最新商売であったことは間違いありません。


この商品がホテルや鉄道会社のような金儲けを動機とするものからではなく、ただ日曜学校の行事を盛んにしたいという一人の牧師の理念から誕生したことを忘れるべきではありません。


また20世紀のはじめ、アメリカではヘンリ・フォード1世が、大衆車T型フォードを大量生産方式で大量生産し、自動車王国アメリカの基礎を築いました。


フォード1世の企業哲学は、およそ資本の論理とはかけ離れた理念に支えられていました。


たとえば、農家に生まれたヘンリi・フォードが考えたことは、農作業につきものの重い労働から農民を解放すること。


また大量生産によって自動車のコスト・ダウンをはかり、安い価格で自動車を供給すれば、金持ちの上流階級だけしか手に入れることができなかった自動車が、多くの一般大衆のものになるというものでした。


フォードが信奉した標語に「プライス・メイクス・ザ・マーケット」というのがあります。


この意味するところは、大量生産によるコスト・ダウンで、大量の自動車を低価格で提供すれば、売れるということ。


フォードは大量生産方式を採用する際に、労働者に対する賃金を大幅に引き上げた。


もちろんこれは労働能率を高める代償でもありましたが、同時にフォード社の従業員にも自動車が購入できる所得を保証する試みでもありました。


このようにフォードの自動車哲学は、単なる金儲けにあったのではなく、農民の労働軽減であり、また富める階級のための奢修品としてではなく、一般大衆のための実用品としての自動車を提供することなどにあったのです。


これらのことから新しい消費・需要あるいは製品・商品を創造し、開発していくには、つねに新しい理念が必要であることがわかります。

創造すること

日本が西欧諸国をキャッチ・アップしたいま、日本は自らの力でモデルを創っていかなければならないのです。


消費もしかりです。


ひたすらヨーロッパ・アメリカに追いつくことに専念してきた日本に、消費を創造する器量があるでしょうか。


新しく創造することは、音楽・絵画・文学などの芸術に限らず、経済活動においても、やさしいことではないのです。


新しい商品をつくるには、そこには新しい理念が必要とされるからです。


経済の歴史をひもとけば、そういう事例にはこと欠かないのです。


現在、日本の書店の店頭にもある「クックの旅行案内」という旅行ガイドの本は、イギリス産業革命が華なやかりし19世紀後半、バプティスト派の牧師だったトーマス・クックが考え出した旅行斡旋業からスタートしたものです。


この旅行斡旋業をはじめたのが、ホテルでもなく、鉄道会社でもなく、牧師であるところに大きな意味があるのです。


当時のイギリスは、どうにか労働者の労働時間も土曜日は半ドンになり、日曜日は休日になりつつある時代でした。


そして教会では、日曜日には、日曜学校のピクニックを毎週やっていましたが、クックはどこへ行くか調べるのは大変面倒だと気がついて、旅行案内をつくることを考えついたのです。


しかしクックが、旅行業者のはしりになったのは金簿が動機ではなかったのであって、日曜学校1のピクニックを普及することにあったのです。

薩摩の侵攻

慶長14(1609)年2月、薩軍の動員準備は完了しました。


樺山総大将に平田副将、総勢3000余、軍船100余(1300人に75隻とも)の征討軍という名の侵略軍は、その月21日に鹿児島を出発しました。


3月7日、両将は奄美大島(琉球領)島民を挾み討ちにします。


島民は農具を振り窮して抵抗しましたが、火を吹く銃の敵ではありません。


名瀬・焼内(今の宇検)の住民は降参し、徳之島では300の民が戦死し、21日は沖永良都島が降参、と速度が早く、24日には、樺山らは那覇へ向いました。


しかし、港口は海賊よけの鉄鎖を張り廻して防備が厳しく、逆戻りして北の運天港から上陸ときめました。


時に25日。


一方、奄美の大破壊は飛舟で首里城に速報され、国王尚寧を中心に、摂政具志上、謝名ら三司官や表15人ら、100官が参集し、会議の結果、西来院の僧菊隠を講和使者として薩軍派遣に決定。


3月26日船出します。


その頃、北の今帰仁城は既に炎上していました。


菊隠は尚寧王の降伏を船上で樺山に伝え、諒解を得て牧港に帰り、一路首里城に復命します。


しかし樺山軍は運天港に上陸(4月1日)し、放火と殺鐵を繰り返しつつ南下して首里城にせまりました。


「棒の先から火を吹く」新兵器の恐ろしさは、語り伝えて今も沖縄に残っています。


沖縄ツアーに行く前にこのような歴史を知っておくと、沖縄のことを深く見られるようになるでしょう。