育児との両立

その頃は歌手としてはとっくに忘れられた・・・・存在でありながら!なんと最終的には30万枚以上の大ヒットを飛ばした。

以降は育児との両立が大変であり、ライブ活動からは引退したものの、アレンジャー・プロデューサーを行っている夫の援助を受けながら、シンガーソングライターとして活躍を続け、3年間のロングセールスを記述したアルバム『REQUEST』(1987年)や、シングル『駅』(1987年)、シングル『シングル・アゲイン』(1989年)、シングル『告白』(1990年)、シングル『家(うち)に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)』(1992年)などのヒット作を発売する。活動的ですね~。

1992年にはアルバム『QUIET LIFE』が発売と共にミリオン・セラーとなり、1994年のベストアルバム『IMPRESSIONS』は売上300万枚を超えちゃう大ヒットを記録する。

山下達郎が大いに驚く

1982年に山下達郎さんが自身のレコード会社ALFA MOONを設立したことから「記念に一枚」のつもりで、1984年にシングル『もう一度』、そして全曲を彼女自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』を発売!

ちなみに・・・・
このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して作る予定だったのですが、休業中に彼女が書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下達郎さんがすごーく驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとして発売する事になったんですよ~。
山下達郎さんが驚くというのは・・・かなりのクオリティの高さですよね!

ルックスが災い?

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1981年、彼女のルックスが非常に良いことが災いして
アイドル的な活動を要求されることと自身の希望する
活動とのギャップから一時休業を宣言、その後1982年に山下達郎と結婚。
同時に専業作詞作曲家として活動を開始し、河合奈保子の『けんかをやめて』などのヒットを放つ。

山下さんとの出会い

1078年ごろアレンジャーとして彼女の前に登場したのが、後に公私共に良きパートナーとなる山下達郎である(もっとも、デビュー以前からまりやはシュガーベイブや達郎のライブを見に行っていたと語っており、特に自らのデビューライブ直前に見た達郎のライブには大きなインパクトを受けたという)。

竹内まりやの結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾(濱田金吾)といった錚々たる作家が提供し、作品の質は極めて高い。

中退。

1978年、シングル『戻っておいで・私の時間』、アルバム『BEGINNING』でデビュー。英文科に進んだが、厳しいことで有名な唐須教光のゼミと音楽活動の両立ができなくなり中退。のち、1979年のシングル『SEPTEMBER』、1980年のシングル『不思議なピーチパイ』などがヒットする。デビュー当初は、安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供するアイドルソング的な歌を歌わされていたが、これに飽き足らず間もなく自ら作詞・作曲を手がけるようになった。

くればーだ。

慶應義塾大学文学部に進学(将来的には通訳をやりたかったという)。在学中に音楽活動(杉真理の所属する「ピープル」旧リアル・マッコイズ)を始める、このサークルで竹内は鈴木慶一の従妹の宮悦子、現在は料亭で女将業の中山ゆき子らとともにバックコーラスグループもやっていた。このサークルは第8回ポプコン関東甲信越大会(1974年9月7日中野サンプラザ)に「踊りに行こう」という曲で参加しているが、同大会には別グループとして佐野元春(バックレイン元春セクション)、庄野真代、桐ヶ谷仁(フェードイン。現在は松任谷正隆の経営する音楽学校講師)も参加していた。

「竹野屋」

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出雲大社近くの老舗旅館「竹野屋」主人でもある竹内・大社町(当時)元町長の娘として生まれる。特にキリスト教徒ではないが、世界的に通用する名前をとの父の考えからまりやと名づけられた。

島根県立大社高等学校在学中に、アメリカ・イリノイ州ロックフォールズ(Rock Falls) 高校に1年間留学。この留学は、AFS(高校生の交換留学団体)の交換留学制度で行ったものであるが、この時のAFSの同期に、国際ジャーナリストの小西克哉がいた。

元アイドル

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竹内 まりや(たけうち まりや、1955年3月20日 - )は、
島根県出雲市大社町出身のシンガーソングライター。
自称「シンガーソング専業主婦」。本名、山下 まりや(旧姓:竹内)。
夫は山下達郎で、間に一女がある。デビュー当時はアイドル歌手だった。血液型はA型。